2008年12月16日火曜日

夜間スクリーング

夜間スクリーングも来週の月曜日で終わろうとしています。
正直言って、月曜日の政治史は一体何がでるのやら?って感じですね。。。
まぁ、論述だし・・・何とか頑張って書いてみたいと思います。

しかし、最近レポートの再提出に泣かされる日々です。
昨年はレポートが調子が良かったなぁ・・・と、思うのですが、、、
忙しくて、あまりレポートに時間をかけて居られないことが原因なんですけどね。
もう少し落ち着いた感じで、参考資料を吟味しなくては!と、思うのですが、、、
中々まとまった時間を割けずに居る。そして、時間があると疲れて寝ている。
これって年でしょうか?

と言うことで、とりあえず、月曜日の試験頑張ります。

2008年11月13日木曜日

夜間スク

今日は日本法政史の授業。
早いモノで・・・後、2回で授業も終わる!驚く!

今日は仕事が早めに終わったので、15分遅刻程度で大学に着いた。
法政史は他の授業と違って、試験以外の日の9回を3人の講師が3回ずつ担当。
今は最後の先生で、江戸当たりの法について勉強中なのですが・・・。
この講師は板書をしないので良く聞いていないと、駄目なんだかなぁ?と、言う感じ。
正直は授業スタイルは一番最初の先生が好き(^^)聞いてるだけじゃやっぱり何が大事か分からないことも在る。
でも、今日、初めて分かったことがある!
私は公事方御定書って江戸時代の刑法だ!と、思っていた。しかも、これは日本全国使われている。と、勝手に思いこんで居ました。
しかし、実際には違ったようで、別名幕府法曹法と言うことで、これは徳川家が治めていた、700万石の刑法なんですね。幕府制定法との違いを今日理解できて。。。高校の教科書的な印象とは違う!と、思いました。公事方御定書・・・もっとメジャーな法じゃないの?って感じで驚き!
熊本藩とかは、独自に刑法持ってたんですね、、、しかも内容もかなり充実してるじゃないですか!
と言う、、、驚きなんですけどね。
余り今日の先生の所は試験に出ないそうです。


しかし、私、慶應に通っていて・・・初めて。。。嫌味?と言うモノを聞いたわ。。。

何がって・・・、イヤね。
授業の時、飲み物と軽い食べ物を持って行くんです。
で、コーヒーを飲んだのですね、で、空になった容器を授業中にノートにぶつかって机から落ちてしまったのですね。でもね、立ち上がって拾うのも授業中だし、と、思い、、、授業が終わってから拾ったのですね。
そしたら、前の席で授業に出席していたお婆ちゃんが・・・にぎやかですね!と、言うのですよ。
おぃおぃ。。。寝てたじゃん・・・授業中。
別に、授業中おしゃべりしていたわけでもないしね。。。携帯が鳴ったわけでもない。
落とした以外は、ずっと授業に集中して講師が話してることをノートしていたのに・・・
何とも、、、こんな経験は初めてですね。
普通に授業を受けていても、モノが落ちることなど結構あるのに・・・こんな嫌味初めてだ。
しかも、真面目に聞いていたならまだしも・・・相手は寝ていたのよね。。。
睡眠の邪魔をしたと言うことか???多分。。。

2008年11月3日月曜日

日本美術史

ロザン 宇治原って・・・最近、良くクイズ番組で見るよね。
うん。。。頭が良いよね。
私もあの頭が欲しいと思うね。
何でもIQ146らしいよ。羨ましいのよね!

今、日本美術史のレポートを作成中なのですね。
何処に、和風化が在るのか?良く分からない?正直に思う。
うん・・・何故?やっぱり国風文化が関与してるよね。
でも、国風文化って何が特徴的なのか?
とか、頭の中で色々考えていたんだけどね。。。ロザンの宇治原ならきっとすぐに答えがでそう。

と、何だか最近現実逃避気味になっていますがね。困りましたね。

やっと、卒業論文指導手帳が届いたのに、、、先が長いのにね。困ったわ。。。
さぁ、、、どうするよ!って感じですね。
でも、残りの単位が見えてる以上頑張らなきゃ!

2008年10月26日日曜日

東洋史概説Ⅱ

何と、時間がかかったことか・・・。
夏スクがやっている頃から書く!と、言っていた気がする。
しかし、実際に完成したのは今日。。。一体どれだけの時間を費やしたんだ?
正直中身は薄いぞ!という感じです。

何故?原因を探ると・・・8/26に祖母が急死(でも、無いかも知れないが)のに在ると思われる。
8/22に肺炎で緊急入院。
夏スク中ではあったが、祖母の様子が気になり一度は帰省。
容態が一時的に安定したように見えていたが、8/26の朝に急に亡くなった。
眠るような最後だったと両親が言っていた。
その後、葬儀に35日、49日と慌ただしく過ぎていた。
気づけば、レポ締め切り間近じゃないか!超急いでレポを書いた!
何とか本日完成!!!
冷や汗ものだ(^^;
10月の試験は仕事の都合で受けられなかったので、1月の試験は頑張らなければならい!

そんな中、一応卒論登録は完了(^^)卒論指導手帳なるものが最近届いた。
卒業に向けて頑張らなきゃならいなぁ~~~。と、思う。
卒論の内容を考えて提出しなきゃ成らない!忙しいぞ(汗。

夜スクも、月~木まで無謀にも履修している・・・出来るのか?

されて、卒業に向けて頑張るぞ!

2008年10月19日日曜日

卒業論文指導記録ノートが大学から届きました。
これで、慶應の卒業が見えてきました。イヤ、これで半分か?
何だか、気合いが入りますね。

一応、卒論のテーマは 「陰陽師~安倍晴明~」について
と言う大きな骨格は大学に入学したときに決めていたのですが・・・。
しかし、ここまでテーマを大きくすると、まとまらなくなりそうなのでこの中でどこに軸を置くかを今検討中です。

今まで仕事に重点を置いた生活をしていましたが・・・
やはり、ここからは大学卒業にも大いに時間を割いて行かなくてはならないと思う訳ですね。

その前に単位をちゃんと取らなきゃなぁ・・・
今、東洋史概説Ⅱのレポートを作成中。 そして、その後は日本美術史に移ります。。。
出来たら1月の試験で受けたい。

2008年7月8日火曜日

7月の試験

今回は2科目受験しました(^^)
西洋史概説Ⅰと、近代ドイツ演劇です。
手応えとしては微妙。結果が返却されるまで分からないかなぁ?と、言う感じ。

出来たら、この4単位が取れていると、嬉しいのだけどだなぁ♪

早く、卒業したいなぁ・・・。もう、いい加減労力が持たなくなってきた。
年か?体力の限界?
暗記力に欠けるのは。。。やっぱり、脳が退化しているのか?

2008年6月28日土曜日

書道

今日、書道のレポートが帰ってきた。

評価は1回目Cで2回目Aでした。

相手はプロですからね。書道の仮名が書けてないことはバレバレで・・・。
Cを貰えた事でも十分なんですがね(笑。

だって、2枚しか書いてないし(笑。しかも、100円ショップの筆だしね(汗。
穂先を使って書きましょう!と、指示が在ったが・・・100円ショップの筆に
まともな穂先なんって存在しないし、、、最初から割れてるし(あり得ない。

その上、蓬莱切の手本なんってみたことないし、適当に書いたしね。

他の漢字に関しては注意点無く、良好という文字のみでした。嬉しいですね。
伊達に書道をやっていたわけではなかったのかも知れませんね、、、私。

2008年6月25日水曜日

法学

と、言うのは・・・

社会学、駄目だったからね。次は法学にでもチャレンジしますかね?

社会学は学問として認識でなかった私。
一応、スクでも履修が済んでいるので、行けるのではないか?と言う感じ!
まぁ、ここひとまず、仲の良い法学のプロに聞いてみますかね(^^)

2008年6月19日木曜日

がび~~~ん。。。

今日、帰宅すると見慣れた茶色い封筒。

この厚みはまさに!

開封・・・してみた。。。


やっぱり、社会学・・・

結局、3年間何回も先生と文通をしましたが・・・

Dだった。。。


期限切れ・・・さようなら。
せっかく試験は受かって居たけど。。。













レポはゴミ箱へ(涙。













社会学はあきらめて。。。法学を1からやりますか?

2008年6月11日水曜日

卒論登録

卒論登録をしなくては・・・と、思う。
単位も登録に必要な分は一応揃ったし、、、まずは登録してからもう一度自分を奮い立たせるか?

何とも今は少したるんでいる。。。

レポートの進みも悪い・・・。今一波に乗れない・・・。

なので、ここできっかけを作らなくてはと、思うのである。

世の中の人々は勉強に気が向かないときにはどの様して気持ちを持ち上げるのか?

是非、教えて頂きたいものである。

2008年6月5日木曜日

久々に!

久々に更新です。
引っ越してネットが使える状態になるのに、2ヶ月ほどかかりました。

その間に4月の試験も終わり結果も返ってきました。
結果はオリエント考古学Bに、政治学Cで何とか6単位ゲットです(^^)

すでに、7月の試験の申し込みも終わりましたね。
予定では、西洋史概説Ⅰと、近代ドイツ演劇を受験予定。
できたら絶対に4単位を取りたいです。色々な都合で4月は受験科目が減ってしまいました。

西洋史概説・・・苦手分野なので微妙かも知れませんね。

後、夏スクは予定では
近代日本と福沢諭吉と日本史概説を受講予定です。

夜スクもできたら今年でスクを終了にしたいので、4教科8単位を取りに行きたいと思います。
出席できるかは謎ですが・・・特に火曜日・・・。無理だろう(^^;
仕事のカンファレンスがあるやんかぁ・・・。

2008年3月17日月曜日

目下の悩み(^^;

今の悩みは・・・とにかく3分野の社会学のレポートが通らないことである。
きっと、ここ3年で7回程度はレポートの再提出を繰り返していると思う。

そして、教科書の改訂に伴い、今、試験をパスしている社会学としてはこの3月でレポートの期限が切れる。
頑張ってはいるけど・・・全く受かる気がしないのは何故か?
多分、先生が求めているものが見えていないからだろうなぁ・・・。
せっかく試験も受かって居るので、出来たらレポートをパスして、3分野の教科を終わりにしたい。

今、一応最後の足掻きとして社会学のレポートに取り組んでいるけれど・・・どうしたら受かるのか?

私の目下の悩みである。

誰か、アドバイスが有ったら教えて頂きたい。
誰か、社会学を教えて下さいl。なんとも、、、社会学とは出口の見えない迷路のようでありますね。

個人的には、東京への引越しを少しずつはじめ・・・全身筋肉痛にも苦しんでおります。

2008年3月7日金曜日

昨夜自宅に帰ると、レポートが返却されていた!

既に、試験は受かっている西洋史特殊Ⅲのレポートでした。
結果から言えば「C」で何とか合格。

後ろの講評を見ると、事細かに内容に対する評価が書かれていた。
そして、、、最終的に書かれていたのが・・・今回の評価は「C±」と、しておきます。
と、かかれていた(^^;
えっと、、、CのダメはC-だよね?もう少し頑張ればBと言うのはC+だよね?
では?C±とは言うのは?どういう意味で使ったのか?と、思ったわけで(汗。
受かれば、文句はないので良いのですが(笑。

もともと、西洋史系統は苦手。
高校でも一時期問題なっていた、履修不足組なので世界史なんて中学生の記憶で止まっている。
私は私立の高校だったので・・・意外に履修不足な科目がある。名目上は受けたことになっているようだが(いいのか?

なので受かれば御の字だ!

一応、参考にもならないと思いますが・・・載せてみます。
西洋史特殊Ⅲ
1.初めに
14世紀に議会制度が確立することとなるが、それは何故か?イングランドにおいての議会の成立から議会制度の確立までを順に追いながら、議会の本質的機能の観点から論じていく。

2.議会の成立
イングランドでは、アングロ・サクソン時代から賢人会と称する国内聖・俗有力者の集会があり、重要な国事に参加していた。この集会は、封建制度の導入に伴って、封建制度の原理に基づく国王会議に変質した。この会議は、聖・俗の身分が高く、名声のある者からなるという意味では、賢人会と同じであるが、封建関係に基づくものという意味では、新しいものといえる。また、この集会の出席者は、国王の一存にかかっていた点においても、封建的な特徴をもつと言えるであろう。*1 P.123
12世紀後半から13世紀前期、イングランドでは、封主・封臣の支配関係が弱体化するのに伴い、国王は、直属の封臣以外の一般の勢力家とも接触せざるを得なくなった。ここに、直接個人的に招集されるものと間接的に招集されるものに別れ、前者が貴族、後者が庶民となる。この庶民には、この頃、次第に社会的・経済的に力を増してきた特権都市の代表も加わることになる。*1 P.124
国王会議への庶民の召集の最古の例は、1208年、教会財産の没収を監督したと思われる王領地上の各村の代官と4人の代表を、聖・俗貴族の会議に招いたというものであるが、この内容は定かではない。州の代表である騎士が国王会議に招致された最初の例は、1226年、州長官のマグナ・カルタ違反に不満のある州民の声を代弁させるために各州4人の騎士を出すよう命じたものである。この後、ヘンリー3世は、マグナ・カルタを無視し、国民の間に不信感を生んだ。しかし、1258年、ロンドン及びオックスフォードで開かれた国王会議で、国王は、オックスフォード条令を承認した。この両会議には、州代表は招致されなかったが、国王による権限濫用の調査のために各州4人の騎士の選出が定められている。これが、庶民の国政への参加の第一歩であろう。*1 P.125,*2 P.173

3.初期議会
初期議会において、庶民が関与するのは、租税と請願の提出であった。この議会も模範国会と同じく、聖・俗の諸侯と、州、都市の代表と下位聖職者の代表である庶民という議会の構成要素をすべて含んでいた。しかし、国王と諸侯のみの議会もあったことから、初期議会においては、必ずしも庶民の出席は必要ではなかった。*1 P.127
エドワード1世の国家再建の後、王位についたエドワード2世が政治的に無能であったために内乱に発展した。しかし、国王は、大諸侯間のうちわもめを利用して行政委員会を解散させ、再び統治の任に当たることとなった。この体制の強化のために発布したのがヨーク法である。その内容は、貴族行政委員会体制を規定した法令の廃止、王権に反する立法を行えないこと、国王及び国王の権益並びに行為の権益に反して行われる立法は無効であること、国王及び国王の権益並びに国王及び臣民の権益に関する事項は、旧来の慣習に従い、聖・俗諸侯、及び庶民の同意をもって、審議、同意及び決定することを規定しているものである。*1 P.130,*2 P.218,P.224
14世紀初期の召集令状では、諸侯が国王に関する重要な問題について討議し話し合うために出席するよう求められているのに対し、庶民は会議によって決定されたことを聴問、実施するために出席を求められていた。ただし、特殊の事情のあった場合には、彼らの強力が要請されることがあった。*1 P.131
イングランド議会は、聖・俗貴族及び自由土地保有者と市民の代表という三身分が国王と折衝する場という意味で、ヨーロッパ各地に輩出した身分制議会の一つともいえる。しかし、フランスでは三部会、スペイン諸王国の一つでは五院構造、イングランドでは二院構造をとるなど、身分制議会は一様ではなく、各国の社会構造が反映されていると言えるであろう。イングランドでは、課税上法的には貴族の特権がなく、身分間の移動も容易であった。さらに農奴解放も盛んに行われたから、農奴からジェントリー層にまで上昇した例も多い。したがって、イングランド議会を身分制議会と考えるにしても、きわめて特殊なものと見なければならない。*1 P.134,*3 P.240
貴族院に召集される者に対して、初期には明確な世襲制が認められなかった。しかし、時代とともに、同一人物またはその相続人が個人宛に招集されることが行われるようにり、エドワード3世の治世には、事実上の世襲制となった。このため、政敵であっても権利を有するものには令状が送られている。これが議会の諸侯と称される者であり、これを貴族ということができるであろう。やがて、紋章の発達、紋章院の法的承認等が、貴族の外的標示を明確にし、貴族身分の固定化を進めた。また、貴族内部に、公、候、伯、バロンの区別を生じた。*1 P.135

4.「議会」制度の発達
司法において、主な役割を果たしたのは上院であった。国王評議会と議会は、それぞれ別の裁判管轄権をもつようになったが、叛逆罪または重罪によって訴えられた貴族に対する同輩裁判、一般の裁判所からの誤審による上告の審理、弾劾は、議会の手に残った。同輩裁判が貴族の特権となったのは、14世紀初頭期のことと思われる。重罪に関しては、同輩たる他の貴族が、事実の認定、法の適用の決定も行った。誤審の審理では、上院は事実の誤審の審理は行わず、法適用の誤りを審理した。弾劾は、庶民が上告し、上院が裁定した。エドワード3世の未成年時代に、下院が、請願によって行ったことを、議長を通じて正式に要請し、上院の賛成を得れば、不正・無能な官吏を排除できる権利を確立したと考えられている。*1 P.137
また、議会は、好ましくない側近を排除することにより、行政に相当の圧力を加えることが出来た。さらに、国王を廃位することもあった。エドワード2世の場合、1327年、召集された議会の諸身分の代表とロンドン市民の代表が国王の廃位を決定し、議会はその事実を認めるという形をとっている。また、リチャード2世の場合、1399年、二人の司祭が国王の王国放棄を宣言し、諸身分と臣民はそれを認め、ヘンリーが国王となることを認めた。*1 P.141,*2 P.231,P.313
対フランス戦争のために多額の費用を要したエドワード3世は、課税を要求し、国王の帰国後、議会を開き正式に承認した。この時、両院が用意した請願が採択され、議会制定法として布告された。そこで、国王は、高位聖職者、伯、バロン、他の要人及び庶民の共通の同意が得られない場合には、課税されないことを認めた。この議会の権利は、国王の恣意的な行為を妨げ、他の諸国、特にフランスの中世末期におけるような国王絶対化の傾向を阻止する上で、きわめて重要であった。*1 P.142,*2 P.254

4.まとめ
以上、14世紀に議会制度が確立することとなるが、議会の本質的機能の観点から、それが何故か?ということを、イングランドにおいての議会の成立から議会制度の確立までを論じてきた。
議会制度は、封建的な国王会議に庶民を加えることによって議会制度が成立する。そして、14世紀前半に庶民が議会に必ず出席するようになり、そこで次第に地位を高めていく。この時期以降、議会制度の発達は、議会においての庶民の権利拡大という形を取っていく。さらに、課税には議会の協賛を要するという原則は、14世紀前半におおむね定着し、これは中世イングランド議会の達成した偉大な功績であった。

5.参考文献
*1『西洋史特殊Ⅲ』慶應義塾大学通信教育学部教材
*2『中世のイギリス』エドマンド・キング 慶応義塾大学出版会 2006年11月
*3『封建社会』マルク・ブロック みすず書房 1973年9月

ダメな例だと思って頂ければ幸いです。
ちなみに、この課題は07年のもので、、、
試験自体は持込可なので受かりやすいのではないでしょうか?
私みたいに苦手な人間でもBは取れるようですよ(^^)

2008年2月29日金曜日

1月の試験結果

1月の試験結果が返却されました!!!

結果は次の通り(^^)v

英語Ⅶ : C
社会心理学 : B
考古学 : B

と言うことでした☆
やっと英語の呪縛から解放されましたv(^^)v
これでE群の試験が受けられます♪ずっと英語でふさがれていて・・・E群受けられなかった。

現在の所得単位合計が80単位となりました!
レポだけ合格、または試験だけ合格でレポの返却待ちの単位を合わせると96単位☆

今後は卒業登録をして、卒論の方もボチボチ始めて行きたいですね♪

目標は残り2年での卒業です。

4月は目指せ!10単位の合格です(^^)

後、08年度スクの残り10単位を取得することを目標として、卒業に向けて加速したいです。

2008年2月22日金曜日

何でダメ?

4月から仕事の都合で引っ越すことになった私です。

最近引越しの準備とかをしていて、何で北枕ってダメなのか?と、思ったのです。
勿論、故人を北枕で寝かせるから縁起が悪い!と、祖父母からは聞かされていましたが・・・
何故その様な風習になったんか?と、思いネットで調べてみました。

何でも、北枕とは・・・風水的な観点から言えば。。。故人の復活を願ってのことだか・・・。
だから、逆に元気がない人やお年寄りには有効な方角なんだとか?

言われてみれば。。。北東が鬼門なわけだしねぇ・・・。南西が逆鬼門なんだっけかなぁ?

風水と陰陽道って似てる?

とか、思いながら自分が住む部屋の配置を考えています。

う~~~ん、、、洗濯場が鬼門かぁ・・・

あまり気にしませんが(笑。

2008年2月20日水曜日

屈折6回の提出

最近、やっと20Cの仏文のレポートが返却されてきました。

さすが、6回も出していると結果を見るのは恐怖です。

開封してみて、“C”と言う文字を見た瞬間・・・嬉しかったです(^^)

やっと、受かりました。本当に良かったです。試験は一年以上前に受かっていたのですが(汗。
私は前に提出した内容の方がレポートとしての完成度は高かった気がしたのですが、、、
先生が求めるものでは無かった様で(^^;
正直、今回のレポートは本文を抜き出して、その文に対して簡単な考察をつける。
と言う、なんだかなぁ?と、悩む形式でレポートを書き上げました。。。

でも、自分では納得行かなくても・・・先生は前回より良いと、講評にも書かれているので
いい物になっていたのでしょう?多分。

これで3単位。やっと取れました。

2008年2月15日金曜日

夜スクの結果

2/13の夜、ポストを覗くと白地に水色文字と言う見慣れた封筒が入っていた(^^)

まさに!結果が届いたのだ☆

恐る恐る封筒を開けると・・・
図書館情報学 : A
総合講座 : B
国文学古典研究 : B という、結果でした(^^)v

正直言えば、国文学古典研究はAをとりたかったかなぁ?
でも、単位が無事に取得できただけ善しとするしかないですかね♪ 

きっと、今月末には1月の試験結果も返却されるでしょう!

レポートもそろそろ返却されるころかなぁ?と、日々自宅のポストを覗いています。

あぁ、、、学費を払わねば(汗。

2008年2月9日土曜日

4月の英語Ⅶの予測

私的には、4月の英語Ⅶは受けなくて済んだら良いのだけど・・・と、切実に思っています。
つまりは、1月の試験で英語Ⅶが合格していれば!と、思っているのですが・・・。

一応、予測とかして、4月に受験することも視野に入れて勉強しなくてはならないわけでぇ・・・(汗。

という事で、4月何処がでるかなぁ?と、予測して・・・やっぱり、一番考えられるのはp.16 L7-L25だろう!思っているわけですよ。

で。。。訳してみると・・・

p.16 L7-L25
母国語はどうなっちゃうの?
これまで示したコメントは、すべて新しい言語の獲得に関するもので、親がバイリンガルであるかどうかを判断する要因に新しい言語への心理的な関係とその運用能力の二つがあることが分かった。
それでは、母国語はどうなってしまうのであろうか。
バイリンガルに関する定義の中で、この本質をついているものに、「私はまだ母国語でも流暢であるから、自分はバイリンガルであると思う」というものがあった。 
この答えを聞いたときは、私の海外滞在期間は母国語を忘れる可能性に気付かせてくれるほど長くはなかった。
それまで私は、母国語を話さなくなった人たちはたんにそういうふりをしているか、少しお馬鹿さんなのかな、と思っていた。
しかし、時が過ぎるにつれて、母国語を維持することはみかけほど簡単ではないことに気がついた。
ある言語で流暢さを保つには練習が必要なのだが、一箇所に定住してしまうと、このような練習をする環境が手にはいるとは限らないのである。

と、訳だけ書いてみると・・・後は結果が出てからつめようかなぁ(^^;

だって、事細かに突き合せないと受かる気がしないですよ(涙。
訳もちゃんと口語訳にしないとダメな様子だし、前に直訳だけだったら落とされてるし・・・。

4月受けることになったら、、、気合を相当入れないなといけないなぁ(涙。

しっかし。。。夜スクの結果が遅くはありませんか?

2008年2月8日金曜日

まだかなぁ~?

最近、毎日ポストをのぞいている。これは既に習慣なんだけど・・・
夜スクの結果がそろそろ返ってきても良い頃なんだけど、まだ来ない。
そんなことを考えながら、ポストをのぞいていると、、、先日、学費の振込み用紙が届いていた。

届いて欲しいものは届かないのに、、、届かなくて良いものが早めに届くのねぇ(^^;

提出したレポートも中々返ってこない。こないだ、20c仏文のレポートは提出して・・・
2週間でDで返却された・・・思わず“読んでるの?”と、思ったが、今回は一ヶ月以上経過しても返却が無い!Cで良いから合格にして欲しいです。

この夜スクの結果次第では・・・特には何も変わらないがぁ~。
今年の夏と夜でスクの必要単位が全部取り終われるか否かがわかるのは事実。
スクは気力・体力・お金が大変なので、、、早く終わりにしたい!!!

いや、教科書の単位も早く取り終わりたいですが・・・その前にしっかり試験を受けに行かなきゃいけないのですが、仕事の都合でサボりがちなので

08年、毎回試験を受けに行く!ことを、1つの目標として(^^)
そして、スク終了を出来れば、満足♪と、言うことで頑張りたいものですね。

2008年1月28日月曜日

1月の科目試験

1/26~27と、科目試験を受けてきました。
教科としては申し込みは6教科していたのですが・・・実際に受けたのは3教科でした。

1日目
社会心理学
教科書持込なので何とかなっているんじゃないか?まぁ、同調実験の辺りでした。
ちょっと、人名まで忘れてしまいましたが・・・教科書の内容としてはp126辺りをまとめて書いた感じです。評価はともかくとして受かって欲しいです。

英語Ⅶ
これは、嬉しかったです。
予測的にp39!と、思い集中して勉強をしていました。他のページは考えられなかったので!
試験を受けた方なら分かると思いますが、ドンピシャ!で、p39が出たわけです(^^)v
前日にoffspringをchildrenと書かせる問題が出る!とか、not only~butかwhether or notのどちらかの訳をかかされるのではないか?と、予測をしていたのでまさに!って感じでした☆

まぁ、次回の試験の(英語Ⅶに限りますが)私の個人的予測としてはp16L7~L25辺りだと思います。
責任は持てませんが(^^;きっと狙い目だと思います。
試験問題をみて、いざ違う!と、思っても責めは負いませんが(汗。

2日目の移って考古学:
文献史学と考古学の関係と、発展と言った内容だった回答を求められました(^^)
持込なので回答としては教科書のp2~3にかけてを要約する形になりました。

こんな感じで私の1月の試験は終わりました。
3教科ともに、何とか単位は取れているのではないか?と、安易に予測はしていますが・・・
結果が返却されるまではなんとも居えないのですよねぇ・・・。
何せ、採点基準が今一よく分からないですから(涙。自分が完璧!と、思っても落ちることもあるし、
絶対に無理だったと思っていても受かることもある!不思議な話です。

これは2月に結果が返却されるのを待つしかない!

2008年1月24日木曜日

英語Ⅶ試験対策

1月試験も今週末に近づきましてさすがに焦っているわけです。

出来たら、今回の試験で英語とはおさらばしたい!と言うことで・・・真面目に少し勉強しなくてはならないのですが、、、現実は難しい(><)

一応軽くまとめて見ました!
こんな感じで(^^)

Deciding against a bilingual upbringing
バイリンガルに育てないことを決めるということ

When I phoned pleple and asked if I could interview them about their experience of bringing up their children in a bilingual home environment, the answerwould sometimes be: ‘Yes, but my children are not bilingual.’
私がバイリンガル育児と家庭環境に関する電話インタビューを依頼すると、「いいけど、私の子どもたちはバイリンガルではないですよ」という答えがしばしばあった。
experience of bringing up ⇒子育ての経験
a bilingual home environment ⇒バイリンガル家庭環境

I would then explain that I was not only intersted in the ‘success stories,’ but in all the experiences of the parents concerned, whether or not they had brought up their children with two languages.
私は、「成功話」だけに興味があるのではなくて、バイリンガルに育児をしたかどうかにかかわらず、親のすべての体験に興味があることを説明した。
Explain⇒ 説明する  concerned(V)⇒関係のある・関心がある

It subsequently apperared that people were very willing to talk about their reasons for not going through with a bilingual upbringing for the offspring.
すると、何人かの人たちはバイリンガルに育てないことの理由を快く説明してくれることが分かった。
Subsequently⇒ 次に offspring(C)⇒子孫・子

So before we discuss how children can become bilingual, let us first have a look at how and why some parents have decided against a upbilinging.
だから、バイリンガルに子どもを育てることについて語る前に、バイリンガルに育てないことを決めた家庭についてもおさえておこう。
So before⇒ それ以前に

How do parents choose what is important when bringing up children?
育児にとって何が重要であるかを、親はどのように決めているのであろうか。
Choose(V)⇒ 選択する・選ぶ



Well, they all have different childhood memories, they all reach parenthood via many different routes and for many different reasons,and they all expect different things form life.
親はみんな違う子どもの頃の思い出をもち、様々な過程を経て親になるのであり、色々な理由によって、人生に求めるものはおのずと違ってくる。
Reach⇒範囲  routes⇒過程・ルート expect⇒予測する・期待する


All these things influence the way parents raise their children,and the bilimgual upbringing is only one of the many aspects about which parents have to make up their mainds.
これら全てのことが育児に反映されるのであり、バイリンガル育児をするかどうかは、親が子育てにおいて決めなくてはならないことのほんの一部である。
Influence⇒影響する・反映する
Aspects⇒局面  only one of the many aspects⇒多くの局面の中の1つ

By looking at some of the decisions against a bilimgual upbringing and trying to find out more about the reasons behind those decisions, I feel new parents will then be able to make an informed and responsible choice.
バイリンガル育児を選ばなかった親とその決定の背後にあるものをみていくことによって、新しい親たちは、説明を受けた上で、より責任ある選択をできるようになる、と私は思う。
behind those decisions⇒それらの決断の背後に
will ~ be able to make

役に立ては良いんだけど・・・今回の試験で・・・。

2008年1月21日月曜日

1月の科目試験

今週末に1月の科目試験が迫ってきた!
慶應の通信では科目試験は年に4回。もっと有ったら良いのに・・・思うが・・・
今回は枠一杯の6教科を申し込んだが、仕事の資格試験の関係で受験は3教科にする予定(^^)

しかも、今試験を目の前にして全く勉強していないこの現実が痛いです(^^;
全滅!とかは、、、さすがに避けてたいので、何とか受かれる教科があればなァ?と、楽観的。。。
軽視しすぎか?

頑張る気持ちはあるのですが、行動を起こすのは大変です。

勉強してる時間が取れない。いや、今回の試験の後はきっと楽になるはず!
資格試験と重なることがなくなるから、今後はもっと時間を上手に使うことがポイントと、なるかなぁ?

2008年1月17日木曜日

近代ドイツ演劇

昨年末に提出したレポートが返却されてきました(^^)
またもや、レポの評価がAで嬉しいです♪この調子で今月末の試験も乗り切りたいです!
でも、勉強していないけど(^^;

ちょっと、私生活がバタバタしてしまい、今は勉強に身が入らない状態と言ったら良いでしょうか?

仕事関係の資格試験も控え、忙しい日々を過ごしていました(^^)/

ちなみに、近代ドイツ演劇のレポートはこんな感じで書きました☆

06 近代ドイツ演劇
課題:「18,19,20世紀のドイツ演劇の研究」
◆ 序論
 今回近代ドイツ演劇のレポートでは18、19、20世紀の演劇を研究すると言うことで、各世紀ごとに特徴や代表的劇作家、演劇を例に挙げて各々の世紀ごとに、考察を以下に述べていく。

◆18世紀頃のドイツ演劇
 18世紀のドイツ演劇の述べるのに、発端として挙げるべき人物として、レッシング(Gottohold Ephraim Lessing1729~1781)の登場を外すことは出来ないであろう。レッシングはドイツにおいて劇作家を専門職とした始めての人物である。
 若くして彼が父に対して送った「自分はドイツのモーリエールになりたい」と言う手紙の話は有名であるが、彼が文学を傾倒していた象徴的な話でもある。この頃よりレッシングはゴットシェートのライプチヒで演劇活動を開始しいている。
 レッシングの初期作品としては、主にプラトゥスやテレンチウスなど、イタリアの喜劇作家の作品をモデルにしていた他、フランスのモーリエールを手本としていたことがうかがえる。
 しかしながら、レッシングは次第にイギリス演劇に手本を見出すようになり、シェイクスピアの研究もより深く行なっていた。そこで、1755年に発表されたのが、イギリスの市民演劇で『ロンドンの商人』(リロー)を下地としてドイツ初の市民悲劇『ミス・サラ・サンプソン』を創作した。この作品は事実上のゴットシェート理論からの脱却を目指した作品であるといわれている。社会の道徳を意識しながらも、自分自身の気持ちを優先し、それに従う女性像は、18世紀当時のドイツ演劇の舞台においては大変新鮮なものとして市民に受け入れられた。この他にも今日でも上演されているドイツ初の国民的な喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』(1767年)や、暴君に対して、自らの命をかけて戦う父と娘の姿を描いた、封建社会への批判を含んだ作品『エミーリア・ガロッティ-』(1772年)を発表している。レッシング自身はキリスト教徒であったが他の宗教を否定すようなこと無かった。しかしながら、ドイツ文学史上屈指の激しい宗教論争を巻き起こした作品『賢者ナータン』レッシングを象徴する代表作品である。
 作品を世に送り出す傍らで、演劇を理論面からも考察。フランスの古典演劇を非難してシェクスピアこそがギリシャ悲劇の後者であり、国民的市民悲劇こそがシェイクスピアの後者である主張した点は注目すべきであると言える。
 18世紀全体のドイツ演劇の考察としては、レッシングこそが近代劇の親であるといえる。また、批判的理性や予定調和、寛容の精神の象徴される、啓蒙主義的文学が演劇の世界にも広く浸透した時代であるとも言える。

◆19世紀のドイツ演劇
19世紀、それはロマン派が台頭する時代である。主なロマン主義者としてはゲーテ(Joann Wolfgang von Goethe1749~1832)とシラー(Friedrich von Schiller1759~1805)を外すことは出来ない。初期のゲーテは実在の騎士ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンを主人公とする『鋼鉄の腕 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』と言う戯曲を書いた。戯曲の中で主人公は宮廷時代の中世騎士精神を貫き、自由を唱えながら死んでいくと言うストーリで、若い世代、後には国民的自由欲求の心に共鳴し成功を収めた。しかしながら、本来の戯曲の形式を無視したことで、古典劇でなければ戯曲ではないと言う考えの人々からは非難を受ける結果となったが、中身の無い形式模倣作品でなく、充実した内容が伴って居た事により、多くの民衆に受け入れられたと言える。また、ゲーテもレッシング同様にこの作品からもシェイクスピアから学び影響を受けていたことが分かる。ゲーテこの後多くの作品を書くが、三統一の法則による悲劇『ファウスト』を書く、これによりドイツ演劇における、ロマン派を築いたと言えよう。
 また、ゲーテ同様に19世紀ドイツ演劇から欠かすことの出来ない人物として、シラーを挙げる。ドイツ古典主義者の代表と言うべき人物であるが、ゲートと同じく形式にとらわれない自由な構成を用いたのである。その代表作ともいえるのが『群盗』である。
 欧州全土から見れば、レッシングより引き継いだ演劇理論は19世紀に入りさらに発展と遂げ、欧州全体へと広がり影響を与えたといえる。この時代のドイツ演劇が隣国フランスにも影響を与えたことは言うまでも無く、その象徴がスタール夫人が書いた『ドイツ論』(1813)である。また、スタール夫人以外にもビクトル・ユゴーの『クロムウェルの序文』からエルナニの戦いを起こさせ、海峡を超えてイギリスにおけるヴァレンシュタインの英訳を導き、この時代の欧州の文学をロマン主義文学の幕開けであったと言っても言い過ぎではないと思われる。
 19世紀の中ごろの欧州は演劇より小説が盛んな時代へと移る。そんな中ドイツではロマン主義の色彩がより強いものとなる。しかしながら、オーストリアにおいてはグリルパルツァーがドイツ古典主義を淘汰し、格調の高い構成劇を演出した点は大変興味深い。この他にも写実主義に分類されるライムネントやネストロイがオーストリアで活躍し、ヴィーンの全盛期とも言える時代を迎える。
 この後に登場するのが、ヘッベルである。彼の死後25年ドイツ演劇の空白の時代とも言われている一大劇作家であるが、ヘッベルは詩人であり、作風は悲劇が中心で、哲学的であった、その為か格調は高いが芸術性にかける部分が指摘されたのも事実である。代表作は『ユーディット』や『ニーベルゲン』である。
 以上の事より、19世紀のドイツ演劇を考察すると、多くのロマン派が登場し、攻勢に向けて新しいスタイルを生み出し、多様性を生まれた、しかしながらやがて停滞して沈黙時代へと向かった。18世紀のレッシングが一時代を築いたドイツ演劇と比べると、多くの人の手により試行錯誤された時代であることがうかがえる。

◆20世紀のドイツ演劇
20世紀、言わずと知れた第二次世界大戦のあった時代である。言うまでも無くドイツの演劇も戦前戦後で大きく大別することが可能である。
第二次世界大戦前、それは自然主義の時代である。ハウプトマン(Gerhart hauptmann1862~1946)の『日の出前』は炭鉱の発見により一躍富を築いた農夫が,富のために身を滅ぼす、これはドイツの自然主義の出発点といえる。しかし、自然主義はレアリズムがゆえに、精神的、心理的な部分が演劇において損なわれてしまい、評価は今一であった。その為に演劇自体が自然主義とは距離をおく形となった。実際に見ても、1910年以降はハウプトマンは演劇ではなく小説の執筆に力を注いでいる。自然主義の流れとしてはその後ヴィーンで戯曲に取り入れられたが、やがては衰退の道を辿った。やがて反自然主義が登場。人間は過去から逃れることが出来ず、過去は永遠の一部である、と言うことを生涯のテーマとしたホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal1874~1929)。デカダン派の流れを汲んだシュニッツラー(Authur Schnitzler1862~1931)ソフトで音楽的な作品を描いている。また、この頃より社会風刺的な作品も多く書き、その社会風刺の流れがドイツの戦前、戦争へと向かう雰囲気の象徴とも考えられる。
ドイツの戦後は、それは第二次世界大戦の敗北による清算、そして責任と追及に世論の焦点が集中しだ時代である。この世論の動きにより西ドイツにおいて記録演劇が出現した。その象徴も言える作品が『追求』(1865)であろう。この作品は実在するアウシュビッツ強制収容所を舞台とした作品である。この他に、『神の代理人』(1963)も挙げられるであろう。ナチスのユダヤ人虐殺に対するローマ法王の責任の追及、日本の問題とも言える原爆に関することも描かれている。この責任と追求に関する動き、第二次世界大戦だけに目を向けたものだけでなく、ベトナム戦争を中心に書かれた『ベトナム討論』(1976)と言ったものにも受け継がれている。
この記録演劇こそが第二次世界大戦後のドイツ演劇の大きな特徴である。


◆結語
 今回のレポートでは、ドイツ演劇を各年代ごとに考察してきた。18世紀を迎えドイツの演劇は大きく変化し、それを体系付けたのがレッシングの登場であったと言えよう。また、19世紀にはロマン主義が賑わい、戦前には自然主義が主流となった。戦後には戦争の記録を残すような記録演劇が盛んとなった。以上の事より、ドイツにおける演劇の流れは社会に情勢の変化を色濃く映し出していたことが分かる。

◆参考文献
・ 『ドイツ近代演劇』宮下啓三 慶應義塾大学教材
・ 『ドイツ文学案内』岡田朝雄 朝日出版
・ 『近代ドイツ小説』宮下啓三 慶應義塾大学教材
・ 『19世紀のフランス文学Ⅰ』小潟昭夫 慶應義塾大学教材
・ 『シェイクスピア研究』池上忠弘 慶應義塾大学教材

20世紀の部分が、ちょっと薄い感じがするというような内容のコメントと、好感がもてるレポートです。
と、書かれていたので嬉しかったです(^^)v
1回でpassしただけでも嬉しいのに、評価がAと言うおまけ付き♪新年早々最高です!

次は何のレポートに取り組もうかしら?