2008年3月7日金曜日

昨夜自宅に帰ると、レポートが返却されていた!

既に、試験は受かっている西洋史特殊Ⅲのレポートでした。
結果から言えば「C」で何とか合格。

後ろの講評を見ると、事細かに内容に対する評価が書かれていた。
そして、、、最終的に書かれていたのが・・・今回の評価は「C±」と、しておきます。
と、かかれていた(^^;
えっと、、、CのダメはC-だよね?もう少し頑張ればBと言うのはC+だよね?
では?C±とは言うのは?どういう意味で使ったのか?と、思ったわけで(汗。
受かれば、文句はないので良いのですが(笑。

もともと、西洋史系統は苦手。
高校でも一時期問題なっていた、履修不足組なので世界史なんて中学生の記憶で止まっている。
私は私立の高校だったので・・・意外に履修不足な科目がある。名目上は受けたことになっているようだが(いいのか?

なので受かれば御の字だ!

一応、参考にもならないと思いますが・・・載せてみます。
西洋史特殊Ⅲ
1.初めに
14世紀に議会制度が確立することとなるが、それは何故か?イングランドにおいての議会の成立から議会制度の確立までを順に追いながら、議会の本質的機能の観点から論じていく。

2.議会の成立
イングランドでは、アングロ・サクソン時代から賢人会と称する国内聖・俗有力者の集会があり、重要な国事に参加していた。この集会は、封建制度の導入に伴って、封建制度の原理に基づく国王会議に変質した。この会議は、聖・俗の身分が高く、名声のある者からなるという意味では、賢人会と同じであるが、封建関係に基づくものという意味では、新しいものといえる。また、この集会の出席者は、国王の一存にかかっていた点においても、封建的な特徴をもつと言えるであろう。*1 P.123
12世紀後半から13世紀前期、イングランドでは、封主・封臣の支配関係が弱体化するのに伴い、国王は、直属の封臣以外の一般の勢力家とも接触せざるを得なくなった。ここに、直接個人的に招集されるものと間接的に招集されるものに別れ、前者が貴族、後者が庶民となる。この庶民には、この頃、次第に社会的・経済的に力を増してきた特権都市の代表も加わることになる。*1 P.124
国王会議への庶民の召集の最古の例は、1208年、教会財産の没収を監督したと思われる王領地上の各村の代官と4人の代表を、聖・俗貴族の会議に招いたというものであるが、この内容は定かではない。州の代表である騎士が国王会議に招致された最初の例は、1226年、州長官のマグナ・カルタ違反に不満のある州民の声を代弁させるために各州4人の騎士を出すよう命じたものである。この後、ヘンリー3世は、マグナ・カルタを無視し、国民の間に不信感を生んだ。しかし、1258年、ロンドン及びオックスフォードで開かれた国王会議で、国王は、オックスフォード条令を承認した。この両会議には、州代表は招致されなかったが、国王による権限濫用の調査のために各州4人の騎士の選出が定められている。これが、庶民の国政への参加の第一歩であろう。*1 P.125,*2 P.173

3.初期議会
初期議会において、庶民が関与するのは、租税と請願の提出であった。この議会も模範国会と同じく、聖・俗の諸侯と、州、都市の代表と下位聖職者の代表である庶民という議会の構成要素をすべて含んでいた。しかし、国王と諸侯のみの議会もあったことから、初期議会においては、必ずしも庶民の出席は必要ではなかった。*1 P.127
エドワード1世の国家再建の後、王位についたエドワード2世が政治的に無能であったために内乱に発展した。しかし、国王は、大諸侯間のうちわもめを利用して行政委員会を解散させ、再び統治の任に当たることとなった。この体制の強化のために発布したのがヨーク法である。その内容は、貴族行政委員会体制を規定した法令の廃止、王権に反する立法を行えないこと、国王及び国王の権益並びに行為の権益に反して行われる立法は無効であること、国王及び国王の権益並びに国王及び臣民の権益に関する事項は、旧来の慣習に従い、聖・俗諸侯、及び庶民の同意をもって、審議、同意及び決定することを規定しているものである。*1 P.130,*2 P.218,P.224
14世紀初期の召集令状では、諸侯が国王に関する重要な問題について討議し話し合うために出席するよう求められているのに対し、庶民は会議によって決定されたことを聴問、実施するために出席を求められていた。ただし、特殊の事情のあった場合には、彼らの強力が要請されることがあった。*1 P.131
イングランド議会は、聖・俗貴族及び自由土地保有者と市民の代表という三身分が国王と折衝する場という意味で、ヨーロッパ各地に輩出した身分制議会の一つともいえる。しかし、フランスでは三部会、スペイン諸王国の一つでは五院構造、イングランドでは二院構造をとるなど、身分制議会は一様ではなく、各国の社会構造が反映されていると言えるであろう。イングランドでは、課税上法的には貴族の特権がなく、身分間の移動も容易であった。さらに農奴解放も盛んに行われたから、農奴からジェントリー層にまで上昇した例も多い。したがって、イングランド議会を身分制議会と考えるにしても、きわめて特殊なものと見なければならない。*1 P.134,*3 P.240
貴族院に召集される者に対して、初期には明確な世襲制が認められなかった。しかし、時代とともに、同一人物またはその相続人が個人宛に招集されることが行われるようにり、エドワード3世の治世には、事実上の世襲制となった。このため、政敵であっても権利を有するものには令状が送られている。これが議会の諸侯と称される者であり、これを貴族ということができるであろう。やがて、紋章の発達、紋章院の法的承認等が、貴族の外的標示を明確にし、貴族身分の固定化を進めた。また、貴族内部に、公、候、伯、バロンの区別を生じた。*1 P.135

4.「議会」制度の発達
司法において、主な役割を果たしたのは上院であった。国王評議会と議会は、それぞれ別の裁判管轄権をもつようになったが、叛逆罪または重罪によって訴えられた貴族に対する同輩裁判、一般の裁判所からの誤審による上告の審理、弾劾は、議会の手に残った。同輩裁判が貴族の特権となったのは、14世紀初頭期のことと思われる。重罪に関しては、同輩たる他の貴族が、事実の認定、法の適用の決定も行った。誤審の審理では、上院は事実の誤審の審理は行わず、法適用の誤りを審理した。弾劾は、庶民が上告し、上院が裁定した。エドワード3世の未成年時代に、下院が、請願によって行ったことを、議長を通じて正式に要請し、上院の賛成を得れば、不正・無能な官吏を排除できる権利を確立したと考えられている。*1 P.137
また、議会は、好ましくない側近を排除することにより、行政に相当の圧力を加えることが出来た。さらに、国王を廃位することもあった。エドワード2世の場合、1327年、召集された議会の諸身分の代表とロンドン市民の代表が国王の廃位を決定し、議会はその事実を認めるという形をとっている。また、リチャード2世の場合、1399年、二人の司祭が国王の王国放棄を宣言し、諸身分と臣民はそれを認め、ヘンリーが国王となることを認めた。*1 P.141,*2 P.231,P.313
対フランス戦争のために多額の費用を要したエドワード3世は、課税を要求し、国王の帰国後、議会を開き正式に承認した。この時、両院が用意した請願が採択され、議会制定法として布告された。そこで、国王は、高位聖職者、伯、バロン、他の要人及び庶民の共通の同意が得られない場合には、課税されないことを認めた。この議会の権利は、国王の恣意的な行為を妨げ、他の諸国、特にフランスの中世末期におけるような国王絶対化の傾向を阻止する上で、きわめて重要であった。*1 P.142,*2 P.254

4.まとめ
以上、14世紀に議会制度が確立することとなるが、議会の本質的機能の観点から、それが何故か?ということを、イングランドにおいての議会の成立から議会制度の確立までを論じてきた。
議会制度は、封建的な国王会議に庶民を加えることによって議会制度が成立する。そして、14世紀前半に庶民が議会に必ず出席するようになり、そこで次第に地位を高めていく。この時期以降、議会制度の発達は、議会においての庶民の権利拡大という形を取っていく。さらに、課税には議会の協賛を要するという原則は、14世紀前半におおむね定着し、これは中世イングランド議会の達成した偉大な功績であった。

5.参考文献
*1『西洋史特殊Ⅲ』慶應義塾大学通信教育学部教材
*2『中世のイギリス』エドマンド・キング 慶応義塾大学出版会 2006年11月
*3『封建社会』マルク・ブロック みすず書房 1973年9月

ダメな例だと思って頂ければ幸いです。
ちなみに、この課題は07年のもので、、、
試験自体は持込可なので受かりやすいのではないでしょうか?
私みたいに苦手な人間でもBは取れるようですよ(^^)

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